昨日行きたかったけど集落の共同作業とBBQで午前も午後も行けなかった遺跡の発掘見学会。偶然FBに写真と簡単な記事が載っていたのを見て、今朝早速行ってみました。 12月で発掘調査を終れるのかな?
まだ少ししか掘ってありません。もっと広く掘って700年の土のベールをすっかりはがすにはもっと時間がかかるのではないかな?
素人目には泥は3層、礫も2層以上あるように見えます。関川の氾濫の歴史が残っています。
遺構は泥の層の下の方にあったのでしょうね。
現場は刃物会館の老朽化に伴う新事業の『刃物ミュージアム回廊』の建設予定地です。
1948年2月にアメリカ軍が上空1800mから撮った現場の写真です。まだ平和通はありませんが、越美南線の線路や関川、春日神社、安桜小学校は分かります。
フェザー剃刀の工場であった土地に関市の観光の拠点として『刃物ミュージアム回廊』という名の施設を作ろうという事業です。
関市HPの平成25年3月の関市の文書には、
日本刀の歴史と関の刃物ミュージアム回廊修景整備基本計画
②刃物のまち関の位置(ポジション) 1)日本刀の歴史からみる関武器として刀が製造された「五箇伝」は古い順から、大和伝(古代)、山城伝(平安時代)、備前伝(鎌倉時代)、相州伝(鎌倉時代)、そして美濃伝(室町時代)となっています。刀は鋼の生産地で製造され始めますが、のち刀の需要地での生産に移っていることがわかります。室町から戦国時代の世は、「美濃を制する者が国を制する」と言われ、戦国武将である織田信長や豊臣秀吉の時代を背景に「関の日本刀」はブランド化していったのではないか、と考えられます。 と記されています。どうやら美濃伝の刀鍛冶の発祥の地点は分からないままのようです。![]()

関を日本刀の生産から始まった刃物の町と言いますが、300人もの刀匠が日本刀を鍛えて技を競い合ったのが、今まで関のどこなのかは分かっていなかった。それが何と、春日神社の西、関川のほとりに予定される関刃物ミュージアム回廊予定地でその一端が顔を出したというのは何と素敵なことでしょう。![]()

私はこうなったからには、この遺跡の発掘にたっぷりと時間をかけて、関市の刀鍛冶の中心地がどのような様子であったのかをはっきりさせることがとても大事だと思います。つまりひょっとしたらこの関川の最下流両岸で、津保川の氾濫の影響のない台地が刀匠たちの町として栄えた関刀鍛冶のメッカだったかも知れないのです。
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