関市市街地の中心部にある標高154m(我が家とほぼ同じ)の安桜山にお城ができます。とはいっても美濃市の小倉山の頂上にある天守閣風のものではなく、3層の櫓のようなものだとか。
実際には関城はどのようなものだったのか、本城山・小野城址研究のついでに。
安桜山に城(?)があったのは1550年~60年ころです。城主はかの斉藤道三の子、長井隼人です。あまり関にはいなかったようで、御嵩町の金山城が本拠地であったようです。
織田信長が犬山から坂祝の猿啄城を落とし、加茂地区へ攻め入った時に、蜂屋の堂洞城、加治田城、関城は斉藤勢として撃退するはずでした。しかし加治田城が調略され、堂洞城が攻められて岸勘解由一族が討ち死にする戦いのとき、関城の長井隼人は富加町夕田の低い丘に陣取った信長軍と津保川を挟んで対峙したものの手が出せなかったようです。
やっと岐阜城からの援軍を得た長井隼人は3000の兵で、調略されて臣下となった加治田城に兵800で駐留していた信長を攻め、信長はほうほうのていで尾張の国に逃げ帰ったとのことです。
その後に関城は捨てられたらしいです。
美濃の国主斉藤家の家老であった長井隼人の本拠地である御嵩町の金山城に比べ関城はあまりぱっとしません。今度の関城が関の街のみならず関市全体の活性化のシンボルになると良いです。(大和工務店サンのHPにスケッチあり。)
時代はこれより3,40年前になりますが本城山の小野城は当時としては美濃で一、二を争うほどの強大な山城であったのではないか、という顧問の先生の説のロマンをもって「小野城の由来研究会」を発展させたいです。富野は関の街の奥座敷として、しぶとくゆっくりと発展していけるはずです。
明日は武儀町のロマンウオークの方々4人を案内して藤谷白山神社脇から本城山、大仏山、高沢古道、高沢山、高沢観音、藤谷というルートで歩きます。![]()

風呂場の脱衣所の窓を数cm開けてパチリ、エサの大きさからするとヒナはだいぶ成長してきているようです。![]()
